およそゴミ処理プラントは、綿密な燃焼計算に則って設計されています。しかし現実には、水分が多い時もあれば、難燃性の固形物が大量に混じる日もあります。机上の計算どおりにはいかないのが廃棄物であり、所期の目的に対して70%もクリアすれば上出来。間尺に合わない話ですが、当社が事業を興した昭和50年代には、それが常識だったのです。
設立まもない頃の当社は、そんな悪しき常識を疑い、燃やすべき廃棄物を100%処理できるプラントの開発に心血を注ぎました。確かな成果が評判と新たなオファーを呼び、施工実績は九州一円と沖縄に拡大。真偽のほどはわかりませんが、当時は大手メーカーさんのあいだで「九州ではいい加減な仕事はできないぞ」といわれていたそうです。やがて、大手があまり手がけない8時間運転の機械化バッチ炉の分野で全国トップシェアを獲得。その頃には業績は150億円を突破し、社員数も100名をゆうに超えていました。
思えば、業界の常識を疑い、徒手空拳で起業。そんな私の思いに共鳴し、手弁当の覚悟で駆けつけてくれた創業時の仲間にも恩返しができた。優秀な技術者も育った。さあ今後はさらなる飛躍をと、おおらかに夢を広げていた矢先のことでした。好事魔多し。1997年のダイオキシン問題を境に、未曾有の業界再編が始まったのです。